ノックして扉を開けた隣室には順平がいた。今の時期もう日没は早いとはいえ、窓から入る明かりもないこの時間を考えれば、まあ当たり前のことだけれど。部屋の中は相変わらず汚かったが、一時期の足の踏み場も無いような状態から考えればまだ綺麗なほうで、ごちゃごちゃしてはいるが雑誌やカップ麺の残骸に邪魔されることなく侵入することができた。無謀にも裸足でこの部屋に踏み入り、硬質的で、それでいて粘着質の物体を踏み潰してしまったことは記憶に新しい。その踏みつけた物が何だったのかは考えないようにして、その感触を思い出した足の指に伝わる悪寒に耐えながらドアの隙間から体をねじ込むと、ベッドに座って漫画を読んでいたらしい順平が声をかけてきた。 「よぉ。お前が自主的にこっち来るなんて珍しい……っておま、何勝手に漁ってんだよ!」 机のそばの床に捨て置かれていた、順平の通学用の鞄の中に手を突っ込んで、目的のものを探していると怒られた。普段の僕なら彼の怒りももっともだと思うし、 一緒になって憤慨してやっても良いと思うが、生憎、僕はこのコソドロのような行為にみじんも罪悪感をもっていない。なぜなら悪いのは順平だからだ。彼は自分の非に気付きもせずあんなに僕に怒っているのだ、憐れなやつめ。 「英語。課題」 鞄を漁る手を止めずにぼそっと呟くと、順平の肩が確かに揺れた。ようやく思い出したか。 「明日提出の。一日だけって言われて貸したの、いつだっけ?」 「すんませんでしたー!」 叫ぶなり、素晴らしい速さでベッドから降りて床に膝を付き土下座した。別にそこまでして欲しかったわけではないけど、なんとなく面白かったから特に何も言わずに眺めてみる。黙ったままの僕に、よっぽど怒っていると思ったのか、うーとかあーとか唸りながら顔をあげて、本当にすまなそうに「ごめんなぁ」なんて言って困った顔をするから、僕は許すよりほかなくなってしまった。まあいいけど。 なんとなく肩透かしをくらった気分をごまかすように、ズボンの尻側にあるポケットから煙草とライターを取り出して火をつけた。窓を開けて側に立つ。それを見た順平がまたあーとかうーとか唸りだした。僕が喫煙者だってことはとっくに知っているだろうに、何か文句でもあるのだろうか。じっと見ているとうっと身をよじった。 「お前さ……ほんと目付き悪ぃんだから、んな睨むなよ……」 「別に睨んでねーし」 「……えー……。まあそれは良いんだけどよ、煙草さあ」 「課題」 「いやいや文句とかじゃなくてな」 「ただいまー! この寮ってトイレまで装飾凝ってるんだねぇ。学生寮のわりに豪華すぎない?」 順平の声は、ノックも無しに突然入ってきた、妙にはしゃいだ声にかき消された。 望月か。 「あれ、こんばんは! 寮で会うの珍しい、よね?」 「ん。こんばんは」 自分の居ないうちにいつの間にか増えた人間に、望月は少し戸惑ったようだが、すぐににこやかに挨拶してきた。学校帰りにそのまま寄ったのだろう。さすがにマフラーは外していたが、制服姿のままだった。 誰とでもわりに上手くやっている望月は、順平とは特に仲が良く、こんなふうに、寮に遊びに来たりもするらしい。らしいというのは、僕が帰ってくるのは大抵彼が寮を出た後で、この付近で彼と会ったことが今までなかったからだ。 そういえば今日は普段より早めに帰宅したのだっけ。にこにこしながら床に座る望月を見て、それより重要なことを思い出した。 「ああ……望月。お前さ、煙草とか吸ったことあるひと?」 「ん? 吸ったことないひとかな」 「一回も?」 「一回も。でも人が吸うのは気にしないよ」 「いや、んー……」 やっぱなぁ、と呟いて携帯灰皿で煙草を消す僕に、望月が少し申し訳なさそうな顔をしたから慌てて付け足す 「別に気使ってるとかじゃなくてな、ただの自己満……てかまぁ、自分ルールだから」 「自分ルール?」 「リョージ、マジ気にすることねぇぞ。こいつオレの前じゃ全然気にしねぇで吸いまくってるからな」 「興味本意で寿命を縮めるようなアホにやる遠慮はない」 「一回だけっつっただろ!」 「一回は一回だろ」 「あ、だから吸ったことない人って訊きかた?」 僕は昔から、一度も吸ったことがない人間の前では煙草を吸わないと決めている。自分が気持良く吸うために必要なことだからだ。 「まぁ、受け売りなんだけど」 「お父さんとか?」 「……いや。なんだっけな、本か映画かの刑事だった気がする」 もっとも、その刑事は、吸わない人間の健康を損なうのは本意ではないからという、とても人道的な理由からルールを決めたらしいが、僕のは単なる保身でしかない。なんとなく加害者意識を持ってしまうのが嫌だから、自分が楽だから決めたルールなのだ。 だから自己満足だと言っているのに 「優しいんだね、キミ」 「……お前話聞いてたか」 「聞いてたよ。うん、でも優しい。周りに迷惑かけないことでキミは満足するんだよね?」 笑う望月。なんとまあおめでたい頭だこと。きっとこいつの目には、世の中はよっぽど好意的に映っているに違いない。そういう素直さは嫌いじゃないが、それを自分に向けられるとどうにもむずがゆい感じがある。 それで、いちいち反論するのも面倒だし、さっさと自分の部屋に帰ることにした。妙に静かだったので一応目をやると、案の定順平は寝こけていた。半目の顔になんとなくむかついたからとりあえず腹を蹴っておくと、飛び起きてぎゃあぎゃあ喚き出したから挨拶もそこそこにさっさと部屋から出てやった。 次の日、英語の授業が始まって、課題を取り返していないことに気づいた。 2008-4-15 メモ初出 8-15 加筆修正 |