文明が発達した現代、人は様々な自然現象を自らの手で造り出そうと考えて、ほんの一部ながらそれを現実にしてしまった。
  それは何時でも快適な気温を保つための空調設備であったり、季節に関係なく人の側の計画に沿って作物を育てるためのビニルハウスであったり、色々だ。
  そのおかげで僕たちは、好きなときに好きなものを懐の許す限りは買い集めることができる。
  旬と外れたそれらは、やはり自然栽培で一番良い時期に収穫されたものに比べてしまえば劣るらしいが、そこは僕も今時の若者らしく、ファストフードや冷凍食品にお世話になっている愚鈍な舌では、微妙な風味の差やらなんやらを認識できるほどの敏感さは持ち合わせようがないというものだ。
  だからまあ、季節外れの果物にはまったく抵抗はない。むしろ下手な菓子類なんかより果物のほうが好きなくらいだ。
  そう、僕は果物が好きだ。ぶどうもみかんもバナナもメロンもスイカもマンゴーもすべからく。
  でもいちごはちょっと嫌いになりそうでどうしよう。
「ねぇ」
  嫌いというよりトラウマか? いちごの味覚、風味、外見その他もろもろの本質を嫌いになったわけではなく、それらによって浮かび上がる記憶がいたたまれないのであって
「ねぇって。何ぼーっとしてんの」
  いちご自体に罪はないのだ。いちごはただただ甘くすっぱく赤くて美味いだけなのだから
「妄想中? ムッツリすけべだなぁ」
「誰がだ!」
「やっとこっち見たよ」
  あは、と首を傾げて笑う仕草は、はっきり言って高校男子のすることじゃない。そのへんにいる男(たとえば友近や順平や僕)がやろうものなら気色悪すぎて目もあてられないのだが、望月綾時がそれをやると、なまじ顔が良いおかげで、おかしな風に似合うものだから、気色悪いには違いないが、おぞましいというよりぞわっと鳥肌がわくような感じがして、精神衛生上大変よろしくない。
「きもい! そういうことは女子にやれ女子に!」
「それって男女差別だよ。僕は好きなときに好きなカオしてるだけだもん」
「男がだもんとか言ってんなよ……」
  にやにやという擬音がぴったりの、嫌な笑顔を張り付けて僕に顔を寄せる望月。ひとの神経をいちいち逆撫でする仕草のひとつひとつを、こいつはわざとやっているんだろうか。馬鹿馬鹿しくてがくりと力が抜けた僕を見て軽く声を上げて笑うこいつが、何であんなに人気があるのかわからない。女子ってのはよっぽど寛容なのだろう。
「……そろそろ口の中乾いてきたんだけど」
  まだ? と反対側に首を傾げて、確実に自分のほうが上にある視線(むかつくことにこいつは僕より背が高い)を、わざわざ下から見上げるように上目使いで覗きこんでくる。可愛らしい女子とか美しい女性にやられたら、それはもうそこらへんの男(友近や順平や僕)なんて一発ででれでれと鼻の下を伸ばしてしまいそうなそれを、男にやられるこの状況は、なんか、なんかちがうだろ。間違ってるだろ。
「……っだい、たいな。なんで、俺が、お前に……っああもう自分で食えよ! 馬鹿!」
「手使うなって言ったの君じゃないか!」
「俺が悪いのかよ! ……だいたいなんでお前、そんな手、絆創膏だらけにしてんだよ……」
「今日選択授業あったでしょう。美術は彫刻刀を使ったんだよ。宮本くんみたいに、てのひらグッサリ刺さなかっただけマシだろ?」
  指先をズタズタにしたくらいですんだのだから充分立派だとでも言うように、ふんとそっぽを向く望月の両手には、絆創膏がこれでもかというほど大量に貼られている。
  ……こんなタイミングでいちごなんて持ってきた僕が悪いのか。でもこれは光子おばあさんが、買い物の荷物持ちをしたご褒美だってくれたものだし、せっかくだからこいつも一緒に食べるかなーなんて善意の行動だったわけだから、僕が悪いわけじゃない。
  いくら引っ越して間もないからって、フォークなんて贅沢は言わないから箸くらい常備しておけと思う。外食生活もほどほどにしろ。
「……いちご食べたい」
  必要最低限のもの以外には本当に何もない、だだっ広いリビングの真ん中。
  床に直接座って、足の短いテーブルに頬を張り付けて望月は唇を尖らせる。
  向かいに座った僕の顔と、いちごのパックとを交互に見てこれみよがしに溜め息を吐いてみせた。
  いいかげん馬鹿馬鹿しくなってきた。ただこいつを満足させて寮に帰ればいいだけの話なのだから、さっさとそうしてしまったほうが無駄に抵抗するよりよっぽど早く、この状況から抜け出せるだろう。
  パックに詰まったいちごの中から、なるべく色の濃い、甘そうなものを選んで摘み上げる。望月を見ると、さっきまでのふてくされた顔とは打って変わって、にこにこと楽しそうにしている。本当にこいつは全部わざとやっているんじゃなかろうか。
  なるべく直視しないように口元に持っていってやると望月が軽く口を開いた。色の薄い唇の間から覗く舌はひどく赤い。元から青白い顔色のせいで余計に際立って、いっそグロテスクなくらいだ。
  気持ち悪くて、いちごを持つ指先が震える。
  止まる。
  そこから動けなくなった。
  いたたまれなくていちごにやっていた視線を上げる
「――!?」
と半目の望月と目があった。あってしまった。
  責めているのでも焦れているのでもないような、無感動な力の入っていない目元で、ゆったりとこちらを眺めている。穏やかな呼吸に合わせて睫毛が揺れる音すら聞こえてきそうで、僕は今すぐこの手に持ったいちごを放り投げて耳を塞いでしまいたくなった。
  頭の中では、馬鹿みたいな速さでめまぐるしく、言い訳のような(何に対してのかはわからない)言葉が現れては消えていくのに、肝心の体はちっとも動いてくれなくて、どうすれば良いのかわからない。
  泣きそうだ。
  ああ、もうどうにでもなれ。
「……っ」
「んむ」
  やけになって、望月の唇にいちごを押し付けてやったら(むに、とかふに、とかの擬音が似合いそうな弾力が、いちご越しに指に伝わってきてぞっとした)、口に入りきらなかったのか、小さく驚いたような声をあげた。本当にわざとやっていたとしたらいったい僕はどうすればいいんだ。
  さっさと口を開けてくれ。躊躇った時間が長かったぶん、いい加減上げっぱなしの腕が疲れてきた。
「……もう、さっさと食えよ……!?
 」 ぐいぐいと、いちごを塞き止める唇に押し付けて溜め息をついた瞬間、望月はようやく口を開けた。いちごの大きさよりも大きく。そのタイミングが悪かったのだ。そう信じたい。
「おま、お前今指」 「んー、あ、これ甘いね」
  美味しいよ、何? なんて嬉しそうにしているこいつが気付いていないわけがない。自分の体のことなのだから。
  なんてわざとらしいやつだと憤慨しているのに、僕の体も口も石みたいに固まって全然動いてくれない。正確に言うと口は動いている。だけど肝心の声がでない。あ、とかう、とか母音ばかりが断片的に出てくるだけで、お前わざとだろとか、指ごと噛むなとか、熱かったとか、色々なことが頭の中に浮かんでくるのにひとつも表に出ようとしない。混乱と言葉が僕の中でぐるぐると渦を巻いた。
  だいたいこいつはおかしい。いくら指を使うなと言われたからって、馬鹿正直に言うことを聞く必要はない。そんなに食べたいなら、わざわざ男に食べさせてもらわなくても自分で摘めばいいのだ。普通(例えば友近や順平や僕)なら気色悪い、そもそも思いつかないようなことを、平気で男の僕相手に仕掛けてくる。
「指に」
「……」
「いちごの汁かな? ついてるよ」
  それはまるで動物がじゃれてくるようでもあり、全く違う意図を持った、はっきりとした目的の見て取れる行動のようでもあった。その目的というのに思い当たることが全く無いと言い張ったなら、僕は稀代の大嘘吐きだ。
  だけどそれを認めてしまうと、僕にとっても望月にとっても非常に不味いことになる。
  以前から感じていた予感が確信になっても、僕は僕と、何より望月のために、必死で気付かないふりをしていたというのに。
  望月は、僕の努力をこなごなに砕きやがったのだ。
  極上の笑顔で、あっさりと。
「お前」
「ん?」
「何でこんなことすんの」
「こんなことって?」
  だめだと思えるくらいに思考が追い付いたときには、望月は僕の下にいた。
  望月は一瞬、驚いたように両目を見開いたが、結局何も言わなかった。無表情に僕を見上げている。
  何を考えているのかわからない、真っ直ぐな視線。それが余計に僕を苛立たせる。
「わざとやってるんだろ。そうやって、何もわかってないような顔して、俺が一人で焦ってんの見て面白がってんだろ!?」
  肩を掴む手に力が篭る。けっこうな強さで押し付けても、望月はうめき声ひとつあげやしない。
「むかつくよ……なんなのお前。からかうのもいい加減にしろよ。俺が何したんだよ。こんな、こんなこと、俺をからかって」
  楽しいのかよ。声がかすれて最後まで言えなかった。
  ああ、肩、痛いだろうな。放してやらないと。
  意識から離れた場所でぼんやり思った。思ったけど、考えてそのとおりに体を動かすことができない。心臓が痛くて、首から上がひどく熱くて、考えがうまくまとまらない。
  僕は何をしてるのだろう。何を言っているのだろう。
  友人の家で、友人にのしかかって、わけのわからないことを怒鳴りつけて。
  こんなことをするつもりなんて、なかったのに。
  望月が罅を入れた関は、もう粉々に砕けてしまった。
  砕いたのは僕だ。
  押し込められていたものが一気にあふれて、僕は動けなくなった。心臓は早鐘のようにうるさく僕の内を叩きつけるのに、指一本動かない。
  たっぷりと長い沈黙のあと、寝そべったままの望月が、ひどく緩慢に口を開いた。
「質問の答えなんだけどね」
  ぞくりとした。
  望月の声には、僕やこの状況に対する恐怖や焦燥なんか、少しも含まれていなかった。
  声には微かではあるが、確かに苛立ちの色が混ざっていた。
  それでも表情は変わらない。深い灰色がかった青い目が僕を見据えている。
「先にこれだけは言っておくよ。僕は別にきみをからかっているわけじゃない。面白がってなんて、全然ないよ。むしろその反対。全然面白くなんてない。わざとやってるってのはあたってる、でも楽しんでないよ、ちっとも楽しくないね、ほんと」
  苛立ちを隠そうともせず、トゲのある口調は次第に早くなっていく。眉間に皺を寄せて睨まれて、僕はひどく驚いた。今まで望月が僕に対して、こんなふうに僕に分かるかたちで、苛立ちとか悪意とか、そういったマイナスの感情を向けたことなんてなかった。
  望月はひとつ溜め息をついて、呆れた風に口を開き直した。
「真逆さ、いらいらするよ。これだけ機会をあげてるのに、きみは無反応。つまらないね、なんなのきみは。……何をした……って言ったけど、違うね、何もしないからダメなんだよ!」
「はあ!?」
  望月は、思わず叫んだ僕をはっ、と鼻で笑った。
「ああもう、ほんとダメだよきみ。ここまでやって据え繕食ってくれないとは思わなかったな。で?  この体制でどうするの? ま、きみのことだから何にも考えてないんだろうけど!」
  望月の、おそらくは初めて見せるであろう、人を思いっきり見下した、馬鹿にしきった表情に僕はしばし呆然となった。
  望月の顔がそんなかたちをとること事態、僕は想像もしていなかった。
  だって望月は、いつもにやにやした笑顔で顔面を覆っていた。こんな風に眉根をよせて、鼻で笑う(というか、嘲笑う)とか、そんな凶悪な表情もできるなんて知らなかった。 やったらやったで、素が良いぶん意外と迫力が出るのだと、そんなどうでもいいことが頭に浮かんで、はっと我に返ると望月は白けた顔で僕を見上げていた。
  そこでやっと僕は、自分の下で寝そべっている、この無駄に上品な顔のつくりをした、今は不機嫌に目を細めている男が何を言ったのかを理解した。
  何言ってんだこいつ!
「ふざ……っ、ふざっけんなバーカ! 何、お前、ほんとにやるぞ! 良いんだな!?」
「どうぞご自由に? そんな甲斐性がきみにあるとは思えないけどー」
「っ、な、なに」
「ほらそうやって引く! そこはさぁ、『てめー泣いてもしらねーからなー!』とかなんとか言って、形勢逆転するとこなのに……」
「う、うるさ、うるさいうるさいバカ!」
  手の施しようが無い、とでも言うように、望月は、はあとため息をついて片手で顔を覆った。
  そのまま遣る瀬無そうに髪を掻き上げて脱力する。薄く開いた唇から、つい先ほどまで自分の指に絡みついていた赤い舌がちらりと覗いた。
  どこまでが無意識なのだろう?
  どこからが計算なのだろう?
  指先に触れた唇も根元まで絡んだ舌先も、いや、今日僕がこの部屋に来てから望月が見せた仕草や態度、その全てが、もたらす結果を計算された、そしてその計算どおりにことが運ぶことを期待されたものだったのかもしれない。
  望月は何も言わない。諦めたように長い睫毛を伏せて、望月から見ればすぐ横にある、小さなテーブルの短い足を見ている。実際にそれを意識に入れているのかどうかはわからないけれど。
  もしかしたら、これも計算のうちなのかもしれない。
  襟元から覗く青白い首筋も。乱れて頬にかかった髪も。睫毛の作る微かな影も。
  ゆるく上下する薄い胸板も、唇の奥で息づく赤も。
  すべて理解した上で、その上でこの態度だというのなら。
  呑み込まれてみるのも、良いかもしれない。


2008-5-6 メモ初出
     8-6 加筆修正