アイギスさんが走り去って、残された僕が床に散らばったプリントやら何やらを拾い集 めていると、不意に声をかけられた。 「また派手にやられたね。大丈夫?」 声のするほうに振り向けば、意外と近いところに彼は立っていた。言葉とは裏腹に、ぜんぜん心配そうではない、むしろ楽しそうな目をしてこちらを見下ろしている。 「どのへんからみてたの」 「アイギスが君の軽口に反応しなくなったあたりからかな」 「そんなにずっと観察していたのかい」 やや呆れながら呟けば、案の定「面白いからね」などと帰ってくる。 「手伝ってあげても良かったけどね。そうしたら君は彼女に追い払われてしまうだろう」 彼は肩をすくめて、彼女が走っていった先に目を向ける。皆が、何を考えているのかわかり辛い、という彼の目は、僕にはとても楽しそうに見える。楽しい、というより状況を面白がっている、といったほうが良いかもしれない。 彼はアイギスさんの「大切」らしい。彼女はいつも彼のことを考えて、彼のために行動しているように見える。その様子はまるで中睦まじい恋人のように見えてもおかしくない筈なのに、僕にはなぜか母子や兄妹に見えるのだ。 アイギスさん曰く、彼女の「大切」な彼にとって、僕はとても駄目な人間らしい。おかげで僕たちは雑談することもままならない。彼に興味のある僕にとって、それはすこし困る事だ。 「こんなに嫌がられているのだから、相手をしなければ良いのに」 急に口を開いたかと思えば、楽しそうな声はそのままに彼はこんなことを言い出した。非難しているのではなく、単純に疑問であるらしい。 「…それは無理だよ」 僕も彼の意見に賛成だ。目が合えばまるで醜悪なごみでも見たような顔をされ、声をかければまるで変質者にでも会ったかのような鋭い目でにらまれるのは、もちろん僕だって嫌だし、何より彼女の穏やかな表情を僕が壊してしまったのだと思うと、とても悲しくなる。しかし同時に、僕はこの上ない充実感と満足感、優越感を感じるのだ。 僕を睨み付けるとき、彼女の透き通った空色の瞳(青はなぜか僕を懐かしい気分にさせる)が僕を映している。 僕から逃げるとき、彼女の輝く金色の髪(金色はなぜか僕を穏やかな気持ちにさせる)が翻る。 空色から入り込んだ僕が、彼女の心の平穏を乱し、怒らせ、耐え切れなくなるほどに掻き回し、そして彼女は金色の残像を残して僕から逃げ出すのだ。 僕以外の誰にこんな反応を見せるだろう。僕以外の誰にこんな憎悪をぶつけるだろう。 僕以外の誰が彼女のあの人形のように美しい容貌を、歪めることが出来るだろう。 僕だけが、彼女の心の負の部分に入り込む。ほんの一部分であっても彼女の心が僕で占められている。たとえそれがマイナスの感情でも、彼女が僕を受け入れているような錯覚を覚えてしまう。それがたまらなく嬉しいなんて、これでは本当に変態だ。 「そう」 怪我しない程度にね、と言い残して彼は去っていった。手伝う気なんて最初から無いのだろう。予想はしていたことだし、僕はそれでかまわない。おそらくあとで、資料の行方を気にしたアイギスさんが、渋々ながら僕のところへやって来て、嫌々ながら謝罪とお礼を言ってくるだろう。 そのとき僕はまた彼女の心に入り込むことが出来るのだ。 |