寮に帰ると順平が少しこわばった声音でおかえり、と言った。なるべく自然に聞こえるようにただいまと返す。居心地悪いのはお互いさまで、僕が足早にラウンジを通り過ぎて自分の部屋に向かっても順平は何も言わなかった。一応謝ったとはいえ、向こうもばつが悪いのだろう。それはこちらも同じことだから、意識せずになるべく自然に振る舞うようにしている。理性は納得していても気持はそう簡単に切り替えることはできない。結局、時間が解決するのを待つしかないのだ。その時間すら限られてはいるのだが。

 部屋に入って鞄を置くと、制服のままベッドの上に仰向けに寝転がった。皺になるかもしれないと思ったが、すぐに眠気が襲ってきて思考が回らなくなった。ここのところフル稼働させられていた頭も体も休養を必要としている。ゆるゆると包み込む睡魔に逆らうことなく意識は暗闇に落ちていった。



 夢のなかには望月がいた。僕の脳が造り出した望月のイメージは、僕の記憶のなかの望月に忠実に再現されていたから、僕にはそれが本物の望月のように見えた。けれどそれはありえない。僕らはもう二人に分かれたのだ。
 「僕を殺せばいい」と僕の造り出した望月が言った。ブルーの瞳を悲しそうに揺らしているのは、僕がそうあってほしいと望んでいるから。だから彼は悲しそうな顔をする。本当は死にたくないのだと雄弁に語りかけてくる深い色の目玉は現実の彼とはぶれている。僕の造り出した彼は僕の望むまま望む姿をとって僕を慰めようとしているが、これを夢だと自覚している僕には自己嫌悪を誘発する結果にしかならなかった。
 僕は彼に悲しんでほしかった。僕たちの滅びではなく自らの死に脅えてほしかった。だけど彼が憂うのは彼の死ではない。僕たちが絶望しながら死んでいくのが悲しいのだと彼は語った。悲しみに澄んだ瞳は真摯で、彼が人間らしく死に脅えているようには見えなかった。僕は彼に一番近いところにいたから、それが真実だと知っている。彼は死を恐れない。彼にとって肉体が滅びることは、彼が終わることではない。死に対する恐怖を理解することはこれからもないのだろう。どんなに似通っていても人間ではない彼と、どんなにイレギュラーでも結局はただの人間でしかない僕は、色々なところが少しずつずれていて、彼の姿はまるで精密な模写のようだと思った。ただ純粋に僕たちの未来を憂いを帯びた瞳で見つめる、彼の優しさが悲しかった。



 目が覚めたのは深夜で、気付かないうちに影時間は終わっていた。自然な状態で当たり前に過ごせる程影時間に適応しているのも、きっと僕のなかに居たという彼の影響なのだろう。こんなふうに彼の存在を身のうちに感じると、何故かいつも、胸に隙間の開いたような気分になる。僕は彼に、戻ってきて欲しいのだろうか。自分の気持がわからなかった。
 喉の渇きを覚えて、寒さに両腕を擦りながら冷蔵庫の中を覗くが何もない。着たままだった制服をのろのろ脱ぎながら寝起きで鈍った頭にゆっくり起こしていく。頬にこびりついた水分の名残をぬぐって、ラウンジに行けば何かあるだろうと、寝間着がわりのジャージの上にコートをはおって部屋を出た。



「あれ……どうしたの?こんな時間に」
「岳羽さんこそ」
 ラウンジには先客がいた。寝間着らしい服の上にカーディガンを着て、カウンターの隅に座っている彼女は、眠れないのだと言って両手で包むように持ったマグカップを軽く上げて見せた。白い液体が、仄かに甘い香りを漂わせてマグカップの中を満たしている。
「まだお鍋に少し残ってるから、よかったらどうぞ」
「ありがとう」
 礼を言ってキッチンを覗き込むとすぐに小さな鍋が目に入った。中の牛乳からはまだ湯気が出ていて、温めなおす必要はなさそうだった。溢さないように自分のカップにゆっくりとそそぎ舌先をつけると、微かに甘い味がする。猫舌の僕には、ちょうど飲みやすい温度だと思った。それと、彼は熱いものでも特に気にせず口に運んでいたことを思い出した。
 僕は彼女とひとつ席を開けたところに座って、いただきますと言ってから、ゆっくりと飲み始めた。温かい液体が喉を通って腹の辺りまで降りてきて、体温が少し 上がったような気がした。その間も彼女は両手で大事そうにマグカップを持って、視線はマグカップに落としたまま、二人とも無言でただいっしょにいた。彼女は何度か遠慮がちにこちらに視線をやっていたが、僕が気付かない振りをしていたので、彼女も何も言わずにいた。沈黙は気まずいものではなく、逆に許容されているようで、かえって心地よかった。
「ごちそうさま」
「カップ置いてっていいよ。洗っとくね」
 好意に甘えて、そのまま部屋に戻ろうと階段に足を向けたとき、ねぇ、と声をかけられた。振り返ると、栗色の瞳が真摯な色でこちらを見つめていた。

「私は逃げない。逃げて、この記憶を無くすなんて、絶対にいや。一年間、ううんもっと長い間、私はずっと影時間を追ってきたの。その記憶はもう私の一部なんだ。無くしたら、それはもう今の私じゃなくなるってことになる、そう思ってる。

でも、君がどっちを選んでも、私は文句なんて言えない。いや文句は言うかも知れないけどさ。でもそれで君を責めるのって、なんか違う気がするんだよね……。選ぶ重みを背負ってるのは、君だから。だけど、私は忘れたくないって思ってる。それだけ知ってて。覚えておいて」

  ごめんね。
 そう言って、彼女は空になった二人分のマグカップを持ってキッチンの奥へ消えた。



 僕は恐れていた。望月が僕とは相入れない存在だと解った後も、理解したふりをして心のどこかでそんなことはないと彼を諦めきれていなかった。彼と僕の共通点を必死に探して僕の中の彼と現実の彼を繋ぎあわせようとしていた。だけど彼は僕ではない。僕が他の誰でもないただの人間の高校生であるように、彼もまた彼でしかありえない。
 岳羽さんの話を聞いて、ようやく、僕は忘却の恐ろしさを知った。
 人の存在は記憶に依存する。ハードである肉体が消失しなくても中身のメモリーがまっさらになってしまったら、もうそれはさっきとは違った存在なのだ、と、言われて初めて、本当に今更、思い知った。
 彼は僕と違って忘却を恐れていなかった。僕は、僕の今の経験、記憶を無くしたあとの僕のことなど考えるのも恐ろしいのに、それすらもいずれ忘れると彼は微笑む。
 彼が姿を消してから二週間以上過ぎた。たった二週間の間に、僕はもう曖昧にしか彼のことを思い出せない。彼の嗜好、彼の心。顔も声も瞳の色すら、日々少しずつ失われてゆく。ふとした拍子に、街中に、彼の姿を思い出すたび、ひとの記憶の儚さに愕然とした。彼を忘れてしまうのが恐ろしかった。彼を忘れることは、まるで自分自身を忘れることのように感じた。けれど、それでも、彼は僕のこの冬の川に浮かぶ漂流物のように頼りない意思を、変わらず優しい声と微笑で、忘却へ誘うのだ。
 選択肢は二つ、死に方を選ぶだけ。消滅の絶望におびえる記憶とともに、肉体の死を迎えるか。それとも記憶という自分を殺して、甘い夢を見ながら自覚のない間に終わらせるか。どちらを選ぼうと僕たちは死に、そして彼は消失する。
 ああ、結局。どちらにせよ、僕が選ぶ結果は、皆を殺すものなのだ。
2008-4-3   メモ初出
     8-15  加筆修正
title by ルゼル | http://milele.chu.jp/lzl/