屋上へと続く階段を上りながら、これから先のことを考える。
  綾時と別れてから一週間以上経った。
  時間は誰にでも平等に流れていて、誰かが望む分だけ遅れたり速くなったり止まったりはしない。何かよくわからない神様めいたものに必死に頼み込んだって、それで僕たちの上に流れる時が待ってくれるわけじゃない。こうして実りの無い思考に沈んでいる間も、残された時間は少しずつ削られていく。一定の速度で、変わりなく。
  じんわりとした焦燥が胸の端にこびりついて離れなかった。三学期が始まってからもそれは同じで、変わらない生活の中、意識の一部は常にどこか別のところに置いたまま、物事は全て上滑りしてゆく。
  授業前にはさまれる教師の雑談を聞いていても、友達と談笑していても、楽しい気分はかえって、自分たちの置かれた状況の救いの無さを強調し、心は焦りに引きずられてしまう。我慢できなくなって、昼休みは屋上で過ごすようになった。一月の冷たい空気の中、わざわざ屋外で食事をしようなんて人間はめったにいない。一人になりたいなら、人が行きたがらないところに隠れてしまえばいいのだと僕は知っている。友近や宮本が声をかけてくれるけれど、なるべくやんわりと断ってかわしていた。
  一人になったところでどうしようもないことはよくわかっている。後ろ向きの心に拍車をかけるだけだと理解していても、それでも誰かと一緒にいて、それが失われる恐怖に触れることに僕は耐えられなかった。
  だからだろう、階段を上りきり、屋上の扉を空けた先に岳羽ゆかりの姿を見つけて、僕はあてが外れた気分になった。
  冬の重たい曇り空の下、岳羽さんはフェンスの前にたたずんでいたが、扉の閉まる大げさな音に気付き振り返った。僕を見つけると、一瞬意外そうな顔をして、それからすこし微笑んだ。
「きみ、よくこんな寒いときに外出る気になるね。雨降りそうだよ?」
  自分のことは棚に上げて、大げさに驚いて目を丸くする。彼女がこんなふうに人を茶化すのは、本当に楽しんでやっているときか、無意識に焦っているときかのどちらかだと、僕は勝手に思っている。今はたぶん後者だ。彼女もまた、こんな季節の昼休みに、こんなところに来る人間なんていないと思っていたのだろう。結局みんな考えることは同じということか。
「そういう岳羽さんは、こんなところで何してる?」
「私はちょっと……」
  僕のわかりきった問に、岳羽さんはフェンスのほうに身体を向けなおして、すこしだけ顔をうつむけた。視線の先に広がる海は、冬空を映して暗く重苦しい。停滞した空気の中で、巨大な風車は回らない。
「いろいろ考えてたんだ。お父さんのこととか、事故のこととか。今まで……うん、この街に来る前のことも、来てからのことも、いろんなこと、思い出してた。まだ十七年しか生きてないのに、いろいろあったなぁ」
  そう言って笑う彼女の、意識して明るく出された声は、僕の耳に流れ込み、冷たい空気に溶けていく。
「いろいろ考えて……そうしたら、ここに来てた。街がさ、見たくなっちゃったのかも」
  すこし落ちた声のトーンを、また無理やり引き上げて肩をすくめた彼女は笑った。けれどもやっぱり空元気は続かなくて、張り付いたような笑顔はすぐに消えた。
「正直、キツイよね。なんで私たちなのかな。たしかにペルソナは出せるけど、それだけ。それ以外に私たちが特別なことって、なにもないよね。ただの高校生、まるっきり子供。私も、美鶴先輩も、みんなも……もちろんきみも」
  苦笑する岳羽さんの髪を、小さな風が揺らした。微かになびく前髪を指先で直し、彼女は空を見上げる。僕は彼女の横顔を見ていた。
「後悔してる?」
  言ってすぐに後悔した。
  聞いてどうする? どうしようもないことだ。彼女が今を選んだことを、たとえどう思っていようと、だから何が変わるわけでもない。僕がどれだけ願っても十年前に帰ることは出来ないように、彼女が何を望もうと、現状に変化は訪れない。
  それをわかっていて、なのに口をついた言葉は、もしかしたら彼女に向けたものではなかったのかもしれない。
「ごめん、忘れて」
「きみはどうなの?」
  僕の言葉に重ねるように岳羽さんが口を開いた。硬い視線をまっすぐ僕に向けてくる。
  転校してきてすぐの頃、僕はこの目がとても苦手だった。ごまかすことを許さない、逃げることを許さない、そんな目。いつだって、いろんなものから逃げてばかりの僕にとって彼女の目は、眼を逸らしていた自分の弱さに無理やり向き合わされるようで怖かったのだ。
  それは今でも変わらない。一年近くの付き合いで、未だに彼女のこの視線だけは苦手だった。
  逃れることも歯向かうこともできない視線を、それでもなんとか逸らさずにいられるようになったのはいつからだろう。
「後悔ばかりだよ」
  今回も、僕は逃げられなかった。口を開いて、だけどうまく言葉が選べなくて、何度か声をだすのに失敗した。彼女は何も言わないで、あいかわらずまっすぐな視線を僕に向けている。口の中が乾いてきた。言葉にすることで、はっきりと自覚するのが怖い。僕は、自分の心の脆弱さに目を向けるのが嫌なのだ。ずっとごまかして生きてきたから。
  喉をならして、言葉を続ける。引き攣れたような声が情けなかった。
「すごく未練がましいんだ。いつだって、選んだ後になって、選ばなかったほうを望んでる。あのとき別のことをしていたら……って、いつも思ってる」
  何かを選ぶたびに後悔してきた。選んだことを悔やんだ。選ばなかったことを渇望した。この街に戻ってくる前も、この街に戻ってきてからも変わらない。
  この学校に転校してきたときも、特別課外活動部に入部するのを断らなかったときも、幾月の態度に疑問をもたなかったことも、十年前のことも、綾時のことも。大切なことにはいつも後悔がつきまとう。
  本当にこれで良かったのか、別のことを選んでいたらどうなったのか、あのときああしていたならば。そんなことばかり考えて、そのうち次の選択にぶつかって、そのたび僕は自分の楽なほうへ楽なほうへと流れてきた。未練がましく卑屈な僕は、どうしたって後ろを振り返ってばかりいる。何を選ぼうと何をしようと、それについては同じことだから。
「だから、どうせ後悔するんだったら、って、自分の気持が楽なほうを選んだだけなんだ。……俺が、綾時を殺したくなかっただけ。これは俺のエゴなんだ」
  たとえニセモノだったとしても、模造品の心でも、そこに確かに綾時は存在していた。
  綾時の中に、「殺される」ことに対する恐怖が無くても、僕の中には「殺す」ことへの恐怖があった。僕は彼を殺したくなかった。自分と同じかたちをしたものを殺すのが怖かった。殺すことで、自分がだれかに殺される可能性がリアルになるのが嫌だった。
  そして何より、ただ綾時を殺したくなかった。
「岳羽さんが気にすることじゃない。みんなが逆を選んだって、俺はきっと今と同じことをしていたから……。だから、気にしないで」
「……そっか」
  岳羽さんは、まっすぐだった視線を、すこし和らげて苦笑したように見えた。
「なんか気、使わせちゃったみたいだね。ありがと」
「いや……」
  岳羽さんは僕に背を向けた。組んだ両手を大きく上に伸ばしてぐっと伸びをすると、一気に力を抜いて、大きな息を吐いた。
「きみっていつもさ!こっちが無意識に望んでる言葉を、すっごく良いタイミングでくれちゃうんだよね。無自覚だろうけどねー」
  何か吹っ切れたみたいに明るい彼女の声は、無理をして出しているようには聞こえなかった。
「あーあ、なんか私見透かされちゃってる?」
  彼女は軽い足取りでふらふらと僕から離れると、フェンスを両手で掴み、肘を曲げたり伸ばしたりして、ゆらゆら身体を揺らし始めた。彼女が前後に揺れるのにあわせて、フェンスがかしゃかしゃと悲鳴を上げた。
  伸ばした片手でフェンスを掴み、体のバランスを保ったまま、綾時は笑って振り返った。
「ね、修学旅行だよ。きみはもう準備してる?」
そう言って、落ち着きなく腕を延ばしたり縮めたりしてぐらぐら揺れながら、ベンチに座る僕に頭だけを向けて笑っている。
  綾時の後ろに広がる秋空は、薄く水色に澄んでいて、高い位置を泳ぐ雲が綺麗だった。その下で、幸せそうな綾時の顔が僕を見ていた。
  何がそんなに嬉しいのかと訊いたら、みんなで楽しい思い出が作れるからだと綾時は答えた。
「順平も誘って、みんなでいろんなところ見て回ろうよ」
  もう随分と冷たくなってきた風が、それでも冬よりは穏やかに、綾時の長いマフラーを靡かせた。
「めんどくさい」
  そのときの僕はわりといっぱいいっぱいで、修学旅行を楽しむ余裕なんてなさそうなものだった。
  結果だけ見れば充分はしゃいで楽しんだし、むしろそのおかげで随分気が晴れたのだけど、綾時に誘われたときはまだそう思っていた。
  綾時は笑った。それは眉間に軽く皺をよせた苦笑だったけれど、それでも彼は笑っていた。
「そんなこと言わないで。思い出たくさん作ろうよ」
  僕はなんと応えただろう。
  たった一カ月。それっぽっちの時間で、綾時はたくさんの思い出なんてつくれたのだろうか。
  冬の濁った曇り空の下、今僕の目の前にいるのは岳羽さんで綾時じゃない。綾時はもうどこにもいない。どこを探しだって見つからない。言葉をかけることなんてできない。僕は彼のためになにもできない。
「そういうの、ないから。見透かすとかそういうの。ほんと、無理だし……」
  フェンスの音が止んだ。俯いた頭に視線を感じる。僕は顔を上げずに自分の靴の先から目を離さなかった。
「ただの、高校生だし」
  どうして僕はあのとき、もっと素直に返してやれなかったのだろう。いっしょに楽しもうと、思い出を作ろうと笑いかけてやればそれだけでよかったのに。
  あのときだけじゃない。いつだって、僕は綾時が欲しがった言葉を与えてやれていたのだろうか。
  確かめる方法はもうない。
「うん……」
  岳羽さんの声がした。頷くだけの肯定が、なぜだかひどく優しかった。
2008-6-15 メモ初出
     8-15 加筆修正