まとわりつく湿気とうだるような暑さが不快感を与えてくる、真夏のある日。
 僕は夏休みの間だけ、この巌戸台分寮にお邪魔している。この建物はホテルか何かを改装したものらしく、学生寮の割には洒落ていた。
 僕は今、寮のラウンジで夏休みの宿題をしている。小学生の宿題なんて、長期休暇といっても対した量はない。せいぜい薄っぺらい冊子を三、四冊仕上げるくらいだ。しかし読書感想文や自由研究なんて面倒なものもあるので、終わらせられるものは八月始めのうちに終わらせておくつもりだ。
 それにしても、エアコンは動いてる筈なのに、どうも暑い。調子が悪いのかな、などと考えながら、僕は算数の問題集にとりかかった。
 一時間ほど問題を解き続けて、ふ、と肩の力を抜いたとき、左目の端に何かが映った。視線をそちらに向けてみると
 「──────ひっ」
 壁に半分ほど体を隠して、ひっそりとこちらを見つめる男がいた。長い前髪から覗く光を映さない濁った目が、じっと僕を凝視してる。彼が立っているのは階段のすぐそば、カウンターに座る僕からは、首を捻らなければ見えない位置だった。昼間だから良かったものの、これを夜にやられたら、ものすごく不気味だ。ホラーだ。昼でも充分不気味だけれども。
 (なんでそんなとこに…しかも直立不動だし…)
 無言でじっと見つめられて大分居心地が悪い上に、はっきり言って気持が悪かったが、関わりたくなかったので、僕は彼を無視して宿題を続けることにした。

 (…まだいるし)
 あれから三十分ほど、僕は集中できないながらも宿題に取り組んでいたのだが、彼はその間同じ姿勢で同じ表情で、微動だにせずずっと僕を見つめていた。やはり不気味だ。しかしいいかげんうっとおしくなってきたので僕は勇気を出して声をかけてみた。
 「あの」
 「……………………」
 「なんでそんなずっと見てるんです。僕に何か用ですか?」
 言ったとたん、彼は僕から視線を外すことなく素早く無表情で僕のそばに立ったので、僕は思わず退けぞってしまった。移動までホラーじみている。完全に引きつつ彼を見れば、後ろ手に持っていた何かを僕にさっと差し出した。
 「これあげる。水分補給は怠っちゃだめだ」
 缶入りのお茶だった。恐らくキンキンに冷えていただろうそれは、彼が僕を凝視してる間にすっかり温くなってしまっていて、缶に付いた水滴が僕を掌をじっとりと濡らした。  「…ありがとうございます。でも、なんでずっと見てたんですか」
 あんた不気味なんですよめちゃくちゃ怖かったんですけど、とは言わないでおく。
 「勉強頑張ってるみたいだったから。邪魔しちゃ悪いかなって」
 「無言で凝視されるほうが邪魔ですよ!」
 声が大きくなってしまったが、彼は気にした風もなく「ごめんね天田君」と謝ってきた。しばらく思案げにしていたかと思うと、いきなり関を切ったように喋りだした。
 「天田君、暑くないかい。アイス食べたくないかい。適度な休憩と糖分の補給は効率の良い作業のために必要だよ。ちなみに僕はチョコアイスが大好きなんだ、イチゴも捨てがたいけどね、天田君は何が好きかな。あ、お昼ご飯は食べたかい。まだなら何か作ろうか、こう見えても料理は得意なんだ。暑いからってあっさりしたものばかり食べているとすぐにバテてしまうよ」
 僕が呆気にとられている間も彼はペラペラと滑舌良く喋り続ける。冷たいもの食べ過ぎてないか、寝るとき体を冷やしてないか、栄養は片寄ってないか────────
 「ちょっと、急に何なんですか!僕の保護者か何かですかあなたは。心配してくれてるんでしょうけど、そこまで面倒見てもらわなくても僕はしっかりやってますよ」
 堪らなくなって止めれば、彼はぴたりと口をとじて首を傾げた。
 「でも、君はまだ小学生だ。もっと周りを利用すればいい。あれこれ構われるのは子供の特権だよ」
 「子供扱いしないで下さい」
 僕はむっとして立ち上がり、そのまま勉強道具を持って階段に向かう。
 「でも独りは寂しくないかい」
 彼の横を通り過ぎようとしたとき、小さな声で呟くのが聞こえたが、聞こえないふりをした。


 伊織順平が自室から降りてきたとき、彼のクラスメートの少年はカウンターの前にぽつんと立っていた。
 「おいおい、んなとこでなに黄昏チャってんの。ん?どしたんよ?」
 「…ふられた」
 「は?」
 ぶつぶつと、僕は言葉が足りないのかだの、絶対寂しいってむしろ僕が寂しいってだのとうつ向きながら呟く姿が何とも不気味だ。
 「…けんちゃんって、呼びそこねちゃった」
 「は?」
 「弟って、いいよね」
 「・・・は?」